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こころのむくままきのむくままにげーむして遊ぶ日々
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1980/07/24
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情報コンサルタント
趣味:
(ほんとのほんとに)読書
自己紹介:
MMOを発明したひとは天才だと思う。
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わたしは現実世界で傷つくことはほとんどありません。

というかもちろんあるのですが、それはせいぜいお風呂にはいってさっぱりするか、お酒飲んで熟睡するか、ゲームしたりしてぱーっと遊ぶか、すればなおってしまうよーなレベル以上のものではありません。

立ち直るまでに必要な日数は1日あるかないか、といったところです。


かつて高校時代、あの苦しかった失恋を経験するまでは、そんなことはありませんでした。

あのときわたしは苦しみを乗り越えるために、こころのもっともやわらかくきずつきやすい部分を現実から切り離し、仮想世界にあずけたのねーと、さいきんつくづく思います。

なぜなら、1日どころか1週間、1ヶ月、場合によってはもっと、、、さらにはときどき思い出してまた苦しむ、などといった「傷つき」をいまのわたしに与えることができるのは、漫画やアニメ、小説、ゲーム、といった世界での出来事(?)だからです。


現実世界でひとに冷たいことを言われたりつらいことがあっても、次の日の朝にはまた(やせがまんではなく)笑うことができる。

でも、漫画(or アニメ or 小説 or ゲームなど)で好きなひとがしんでしまった、あるいはつらい思いをした、などといったことがあると、その記憶は脳裏に焼き付いて、いつまでもわたしを苦しめます。


それは、「たましい」がどこにあるのか?、という疑問への答えであるように思えてなりません。

これをヘンだ、と言いきってしまうのは簡単なのですが、さて、そうではないひとがこの世にいるのかなーという思いもあったりします。


たまたまわたしは「たましい」をそこにおくことで生き延びてきたわけですが、たとえばべつの人は会社においているかもしれませんし、あるいは 家族においているかもしれません。


友達のひとりに、もうかれこれ何年たつのかわかりませんが、いまだにサムライトルーパーやセイント星矢あるいはキャプテン翼などの同人誌を つくりつづけている子がいます。

彼女はその作品の世界のなかに「たましい」をおいてしまったのです。

いずれほかの場所におくようになる日がくるのかもしれませんが、それまでは生きるために離れようがないのねー、と思います。


彼女とちがって、わたしの「たましい」はひとつの場所にのみおいているわけではありません。

そのときそのとき好きになった作品世界のなかにおきかえることが可能です。

それはつまり彼女とはちがい、わたしの「たましい」の置き場所はけっこーかんたんにうごかすことができることを意味しています。


ならば、いまは「暖かいお湯のなかからいきなり冷水にはいるのはつらいので、まずぬるま湯にはいってから、つぎに冷水のなかへ」という感じで、居心地の良い(=都合の良い)仮想世界から、現実世界のなにかのなかにおくことができる日がくるのかもしれません。

それが恋人(あるいは旦那さん?)であれば、うちの母の願いもかなうわけですが、、、さて、そーうまくいくかどーか??、ですねー(くすくす)。

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わたしのともだちのA美ちゃんは、よく、「みんながわたしをばかにする」とか、「だれもわたしのいうことを・・・」みたいなことを言います。

むかしはわたしもそんなこと思ったことがありました。

じぶんではなくて、周り(=世間のひとたち)のほーがわるい、とゆー考え方です。


たしかに、世の中にはひどいひとがたくさんいます。

「わたしだったらぜったいそんなことしないのに」とゆーことをできるひとが大勢いるのです。


でも、ここで大切なことが2点。

 

1、そのひどいひとは、なぜ「自分に」ひどいことをしているのか?

 ひどいひとだからといって、会うひと会うひとぜーいんにひどいことしてるわけじゃありません。

 そんなことしてたら生きていけないです。

 ってことは、ひどいひともちゃーんと「あ、あのひとにはひどいことしても大丈夫」「このひとはまずい」あるいは、「このひとはすき」「このひとはきらい」などなどなどといった価値判断がちゃーんとあるわけですね。

 じゃ、そのひとが、どうして、ほかならぬ「自分」を、そのひどいことしちゃうぞ的対象にえらんだのか?、その理由を考えないと いけないと思うのですね。


 もちろん世の中にはまったくの無作為、無差別、にだれでもいいからーって包丁とかでぐさっと刺しちゃうひともいるわけなので、なにごとにも例外というものはあるかと思いますが、一般的にはやっぱり「人間関係は歯車」なのです。

 歯車は、一個だけあっても回転しません。

 ふたつの歯車がかみあって、回転します。


 歯車がいっこあって、その歯車の歯にどの歯車の歯が合致するか、かみあうか、それはいろいろですが、ともあれ言えるのは「ぜんぶの歯車があう」歯車なんてありえない、ということです。

 ひどいひとがいたら、そのひとがひどいことをするひととしないひとの違いをみるしかありません。

 そして、されないひとにあって、されるひとにないもの、それを身につけるしかありません。

 それが不可能な要素である場合には、とっととそのひとから距離をおく策を考えたほーがいいかも?

 不可能なことに時間と労力を費やしている間にも、寿命はどんどんへっていきます。

 「人間関係は歯車」なのです。


 相手が100%わるい・・・・うーん、わるい、っていう言葉はちょっとちがうにゃ、原因、かな??

 相手に100%原因があって、こちらには0%、などということはたいてーの場合、ないのです。


 逆に、まわりのひとたちがみんな自分にたいしておなじ反応をする場合、それは自分が原因なのです。

 まわりのひとたちにそーいう反応をさせるような言動を自分がとっているのです。


 ひとはだれでも平面ではなく立体としての人格をもっていて、上からみるか下からみるか、近づいてみるか遠くからみるか、光をあててみるか暗いなかでみるか、によってそれぞれ見え方がぜんぜん変わります。

 そのうちのどの面がいちばん生きていく上で楽なのか、それを考えないとだめなのです。

 

2、ちゃんと相手をみているか?

 べつのおともだちで、「好きになる人みんなにふられちゃう」子がいます。

 その子がどーしてふられるのか、わたしわかってます。

 その子が「好きになった」と言う男の人は、どのひともみんな似たような顔で、似たような雰囲気のひとたちばかりです。

 好みというものはあるとは思いますが、たいてーの場合、それはなんらかの「理想像」みたいなものがあって、それにどれだけ近いか?、 なのだとは思います。


 でもねー。

 みてるとその子はあきらかにかつての初恋のひとが「理想像」で、かなり思い出は美化されてて、そしてそのひとにおもかげが似てるひとを さがしてるーってかんじなのねー。


 よく漫画でそーいうおはなし、主人公とつきあいはじめたくらいの彼氏、ぐらいの時期にあるセオリーのひとつとして、

  1.  じつは主人公にはまえにつきあっていた(あるいは好きだった)ひとが過去にいた。
  2.  そのひとといまの彼氏はどこかよくにていた。
  3.  そして、そのひとが主人公のまえにふたたび現れて、主人公に"好きだった"or"いまでも好きだ"と告白する。
  4.  どーする、主人公!?そして彼氏!!!

 みたいなシチュエーションがあります(これ十八番よねーw


 やたらとでてくるということは、つまり女性はそーいうシチュエーションが大好き(あるいは実感があってリアリティがある)ということです。


 そう。

 男性もそーいうのはあるかと思うのですが、どっちかというと男性は「綺麗な子もいいけど、可愛い子もいいし、でも明るい子もいいし、、、」 などというかんじでいろーんなタイプおっけー!!!!、ってかんじなきがします(ねえ

 女性はその点、へんにがんこというか、固着するというか、あるきまった特定のタイプに執着しやすいきがします。


 これがねーやっかい。

 相手の男の人にとって、あるいみこれすっごい侮辱的なというか失礼なおはなしでしょ?

 だって、つきあってる女の子、じぶんのことを好きだっていってる子、その子は「じぶんをみていない」のだから。

 じぶんを通して、その向こうにかつて好きだったひと、あるいは理想像、そういったものを投影して、その影として「好きです」っていってるわけなのよね。


 男の子の努力次第で、幸運にも影と実体が入れ替わる(=つまり、そのひとそのものが影と同一化、あるいは古い影を駆逐して新しい影となる。

 そのとき、影は消えて、はじめて女の子は「じぶんをみる」ようになる)こともないわけではありません。


 これはマザコンとかファザコンとかなんでもいいのだけど、そーいう系のご病気もちのひとたちでもそうで、なにかというと「ママだったら(ママ!?)」とか「パパだったら」みたいなこと言う(そこまで極端なひとは少ないだらうが・・・)ひととおなじおはなしですよね。

 じぶんではなく、おかあさんをみている、あるいはおとうさんをみている、これって相手にとってはものすごーく失礼なおはなしです。

 そして、そーいうのはある程度の時間以上いっしょに時間をすごしていると、なんとなくだんだん察せられてくるものなのです。


 大なり小なりそうした傾向はだれでもあるのは当たり前。

 とくにマザコンとかファザコン、ブラコン、シスコン、はあるいみではしょーがないよねー。

 うまれてさいしょに出会う異性なわけで、「おにいちゃんみたいなひとが好き」でも「おにいちゃんみたいじゃないひとが好き」でも、けっきょくのところそのひとたちにとらわれているのには変わりない(同一化、投影、合理化、えとせとらー)わけだもの。

 それをどこまで「ちゃんと相手自身をみるようにできるか」が、たぶん子供から大人への道のひとつなんだと思います。

 

さいきんよく「対人スキル」という言葉について考えることが多くなりました。

命令をきいて仕事をする側から、徐々に命令をしたりひとをまとめたりスケジュール等を管理したりする側になってきてるからだと思います。

仕事がすごくて恋愛だめ、とか、恋愛すごくて仕事だめ、とか、そんなおはなしよくききます。

でも、人間関係がちゃんとできる(=対人スキルが高い)ひとなら、仕事も恋愛もおなじ土俵だと思います。


技術職だからそのぶんはわりびいてかんがえなきゃですけどね・・・。

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